『シンゴジラ』と『君の名は。』から漂う時代が求めるあの衝動について

 第3回の本日は、第1回目に提起した「なぜ日本人は奴隷的な状態にいて、恋愛に興味が持てないのかという」問題について恋愛とは異なる視点から解釈を試みます。

 今は亡きイギリスの占星術師はかつて「政治と恋愛は似ている」と書いていました。政治も恋愛も、自分が好意を寄せる相手と関係を取り結ぶことと関係しています。

 次のような妄想をすることは果たして許されるでしょうか? つまり、『君の名は。』で求めている運命の相手というのは、本当にただの恋愛の相手なのでしょうか? おそらくそうでしょう。観客の多くが女性であることから、特に男性が求められているのかもしれません。しかし、運命の相手、名前を知るべき相手が自分一人の恋愛相手だとしたら、なぜここまでヒットするのでしょうか?

 これはすべてはわたしの思い込みで、女性たちは実際には恋する2人と会いたいと思っているのかもしれません。冒頭ではあえて曖昧なまま話を進めたいと思います。

 今日は現代ビジネスの2つの記事を引用しながら議論を進めていきますが、私は『シン・ゴジラ』を見ていないので、作品そのものには触れることはできません。

 始めます。まず、『シン・ゴジラ』がどういう作品であるかを、現代ビジネスから引用します。


『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49434

 『シン・ゴジラ』では、ゴジラはこの21世紀のうらぶれた日本にやってくる。決断力に欠ける政治家や、省庁間の縦割りにこだわる官僚たちは当初、この非常事態にうまく対処できず、いたずらに被害を拡大させてしまう。

 ところが、日本存亡の危機がせまるに及んで、政治家や官僚たちは「覚醒」する。眼の色や表情は明らかに変化し、従来のしがらみを捨てて結束し、ゴジラと対するようになるのだ。「現場」の公務員や民間人たちも、身命をなげうってこの動きに呼応する。

 かくて挙国一致した日本は、東京に核ミサイルを打ち込んでゴジラを抹殺しようとする米国の動きを牽制しつつ、日本の科学技術力を総動員して、ついにゴジラの動きを自力で止めることに成功するのである。

 なんとも劇的なストーリーであるが、実はこの展開はさほど珍しいものではない。

 日本はたしかに衰退している。だが、われわれには秘められた力がある。立派な指導者さえ出てくれば、この国はまだまだやれる。対米従属だって打破できるし、科学技術力を世界に見せつけることだってできる――いわゆる「失われた20余年」の日本人は、こうしたストーリーを愛好してきた。

……引用終わり


 『シン・ゴジラ』という作品は、この論者によれば、「日本はたしかに衰退している。だが、われわれには秘められた力がある。立派な指導者さえ出てくれば、この国はまだまだやれる。対米従属だって打破できるし、科学技術力を世界に見せつけることだってできる」という願望が発露された作品ということになります。

 わたしはあくまで評論を読んだ印象にすぎませんが、『シン・ゴジラ』という作品が従来の怪獣映画よりも官僚と政治家という実務面に重点を置いていることは色々な人から指摘しています。

 これもすでに指摘されていることですが、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』と似た様なタイトルの作品が62年前の1954年にヒットしています。また現代ビジネスの記事を引用します。


日本映画史の中の『君の名は。』と『君の名は』〜爆発的ヒットの秘密 「運命の人」をめぐる物語

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49712?page=3

62年前も『ゴジラ』と『君の名は』が大ヒット

 最初の『ゴジラ』(本多猪四郎監督)が公開されたのは1954年11月で、その年の4月に、松竹映画『君の名は』(大庭秀雄監督、菊田一夫原作)も公開され、大ヒットしているのだ。

 1954年の『ゴジラ』対『君の名は』の観客動員対決では、『君の名は』が圧勝だ。

 『君の名は』はNHKラジオで1952年から54年まで放送され、大ヒットしたドラマの映画化だ。岸惠子と佐田啓二が主演し、1953年9月に第一部、12月に第二部が公開され、54年のゴールデンウィークに公開されたのは第三部にあたる。『君の名は』は松竹映画で、東宝が同時期に封切ったのが黒澤明の『七人の侍』だった。つまりは日本映画黄金時代のまっただ中にあたる。

 その黄金時代、黒澤明や小津安二郎、木下恵介、溝口健二、成瀬巳喜男らの映画史に残る名作よりもヒットしたのが、メロドラマの中のメロドラマ『君の名は』三部作だった。

 1953年の興行ランキング1位が『君の名は』「第二部」で3億0002万円、2位が「第一部」で2億5047万円、54年の1位が「第三部」で3億3015万円である。続編の観客動員は前作より減ることが多いが、『君の名は』はその逆で増えている。

 同時期の東宝の『七人の侍』は2億9064万円で3位と、金額ではかなり差が付けられている。対する『ゴジラ』は54年の8位で1億5214万円だ。

 2016年も、『君の名は。』が『シン・ゴジラ』を抜くだろうと言われており、大怪獣を退治する話よりもラブストーリーのほうがヒットするのは今も昔も同じなのだ。

……引用終わり


 ヒットしたのは『君の名は。』の方だというのはどちらも同じみたいです。つまり、いまは1954年に近い状況があるのでしょうか? 一つ思いつくのは、1960年に東京オリンピックが行われたということです。両作品がヒットした1954年はその6年前で、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』がヒットしたのは、2020年に東京オリンピックがある4年前です。

 ただし、2つの時代の置かれている状況はずいぶんと違います。1954年というと、日本が沖縄と小笠原諸島を除いて独立した直後ですが、2016年の日本は、安保法制やTPPが強行採決されるなど、対米従属がますます強まる世の中の流れにあります。

 政治的な出来事でいうと、両映画がヒットした翌年の1955年には自由民主党と社会党が誕生して、いわゆる55年体制が始まります。54年というのはその前年にあたります。

 2016年10月現時点の日本ではそうした政治的変動はありませんが、似た様なことが起こる可能性はあるともいえるし、ないともいえます。すでに野党共闘で自公維新との2大勢力にまとまりつつあり、自民党と社会党のように2つに分かれる可能性はまったくないとは言えないでしょうね。

 では、ゴジラと恋愛映画にはどういう関係があるのでしょうか? それを知るために記事を引用してきたわけですが、『ゴジラ』と『君の名は』その関係性は、実は冒頭でネタバレしています。

 つまり、「政治と恋愛は似ている」ということです。『シン・ゴジラ』で描かれたのは、「日本はたしかに衰退している。だが、われわれには秘められた力がある。立派な指導者さえ出てくれば、この国はまだまだやれる。対米従属だって打破できるし、科学技術力を世界に見せつけることだってできる」という話です。ここで注意すべき点は、「立派な指導者さえ出てくれば」という部分です。ここは太字にしておきましょう。

 第1回の『千と千尋の神隠し』と『君の名は。』を議論したときにも、「思い出せない何者かであるはずの自分、それを探す旅。それこそ『千と千尋』と『君の名は。』に隠された共通点であり、『千と千尋』がヒットしてから15年たってもなにも変わっていない、依然として奴隷的で、運命の相手と巡り合えずに本意ではない人を支持せざるを得ない日本の停滞した状況を表している」と書きました。探しているのは、ただの恋愛相手ではなく、もしかしたら、恋愛と政治は似ている、つまり探しているのは政治にかかわる人物であるという可能性があると指摘しておきたいと思います。

 政治に着目してみると、かつてゴジラと君の名はがヒットした翌年には自由民主党と社会党が誕生して55年体制がはじまりました。両作品のヒットはその前年です。

 異なるのは、1954年は「さあこれからだ」という時期で、2016年のいまは「もうどうしようもない」時期だということです。しかし、もしかしたら、次に起こるのは似た様な出来事かもしれません。率直に言って、わたしは近い将来、政変が起こるような気がします。ただし、それはいいものなのか悪いものなのか、現時点ではよくわかりません。しかし、『ゴジラ』と『君の名は』の類似性からは、そうした可能性が導き出せるのです。

 もう一度、1つ目の記事から引用します。


『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49434

「現実対虚構」ではなく「願望対虚構」

 劇場などに貼りだされている『シン・ゴジラ』のポスターには、「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」という印象的なキャッチコピーが書かれている。

 実際には、ゴジラのような生命体が日本を襲うことなどありえない。たしかにこれは、まったくの虚構だ。だが、それと同じくらい、挙国一致し世界に実力を見せつける日本というのもまた虚構なのではないか。願望の発露といってもよい。

 それゆえ、本作の内容を正確に反映するならば、「願望(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」とでもいうべきであろう。

 『シン・ゴジラ』は、昨今の映画にありがちな無駄なシーンを削りに削ったとも評価される。たしかに、定番のお涙頂戴シーンや恋愛描写などはなく、たいへんテンポがよい。本作の秀逸さは散々語られているので改めていうまでもあるまい。

 ただ、これはまた、われわれが「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」というストーリーを「無駄」と考えず、あまりにも自然に、快楽として受容しているということでもある。

 「失われた20余年」にも似たようなストーリーはあまりにも繰り返されてきた。「決断できる政治家」に対する待望は久しい。「日本の底力」や「日本の実力」を謳歌するコンテンツも増え続けるばかりである。

 だからこそ、野暮なことを承知のうえで、あえていわなければならない。知らず知らずのうちに、われわれはこのようなストーリーに影響されてはいないだろうか、と。

 もし、『シン・ゴジラ』を観て、「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」と本当に思ったとすれば、そんなものは虚構のなかにとどめておかなければならない。「失われた20余年」に繰り返されてきたこうした願望の発露は、その実現可能性ではなく、その徹底的な不可能性を示していると考えるべきだ。

 劇中に描かれる美しき挙国一致の「ニッポン」は、極彩色のキノコである。鑑賞する分には美しいかもしれないが、それを実際に口にすればひとは死ぬ。ありもしない「底力」とやらを信じて、身の丈に合わない行動を起こし、かえって損害を被るのはもうやめたいものである。

……引用終わり

 上の引用では「挙国一致」という単語が出てきました、安倍政権の暴走が続き、戦争が起こればそうした事態は避けられないでしょう。しかし、逆の可能性も一応考えられます。つまり、安倍政権の暴走を抑え込むような「挙国一致」です。どちらも政変を暗示しています。

 名前を探す物語と政治という着眼点で見ると、面白い関係が見えてきます。『千と千尋の神隠し』が上映されたのは2001年で、森総理が辞任し、小泉純一郎が熱狂的に受け入れられた年だということです。

 2016年は、いまのところ小沢一郎の弟子である小池百合子が小泉純一郎のモノマネと安倍政権批判を許さないマスコミの援護射撃を受けて小池劇場を開催しています。こうした類似性を見出せます。

 ここから日本人が映画になにを求めているのか、ということが少しはわかるかもしれませんね。それは、恋愛と政治の両方にかかわる、誰かなのです。

 つまり、名前を知りたい運命の相手というのは実は恋愛ではなくて、小泉純一郎と小池百合子という政治にかかわる名前だったのかもしれません。ただし、小泉純一郎という名前は、本当の運命の相手ではなかったことがすでに証明されています。ということは、小泉と小沢を継承する小池百合子は始まる前から失敗すると確定したようなものです。つまり、彗星が落ちても、人々は救えないということです。彗星から人々を救い出す英雄的な役割を果たす神木隆之介が演じる、立花瀧はいまの時点では存在していないと考えるべきなのでしょう。だからこそ、観客は、いもしないなにかを探しに劇場に出向き、謎を解き明かそうとするのですが、作中の謎を解いたところで彼らの胸にぽっかりあいた穴が埋まることはないでしょう。それは、原因が『君の名は。』が生み出したというより、『君の名は。』という作品が可視化した、これまで眠っていた願望に過ぎないからです。

 もう一つ、小池百合子は運命の相手、つまり立花瀧ではないと思います。なぜなら、『君の名は。』の観客は女性で、彼女たちが探している運命の相手は明らかに女性ではないからです。小池百合子に自分を投影することはあっても、小池を運命の相手だと思う若い女性は多くはないでしょう。

 ということで、おそらく惜しいところまで来ていると思うのですが、決定的な情報が欠けているので先がよくわかりません。

 次回、最終回は運命の相手、立花瀧についてもう少し深めつつ、作品についての個人的な感想などを少しだけ語ります。


では、また あした

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空からにんじんが降ってきてなにかが変わったらいいなと願っているブログ。 ……というのは冗談。 第三次世界大戦に関することや世界統一政府に向かう陰謀シナリオなどを予想したり、時事ネタなどを書いています。

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