『君の名は。』感想~最後の宮水三葉視点から、瀧視点への移動はなにを意味するか~

 第4回目で明らかにしたように、『君の名は。』のストーリーは、宮水三葉が願った「来世は東京のイケメンにして」を立花瀧と彗星という舞台装置を使って成就させるまでの物語とまとめることができます。

 しかし、それは最後2021年に時間が飛ぶまでの話です。その後、視点は立花瀧にほぼ固定されます。そして、2人は運命的な出会いをして終わるのです。

 ではなぜ最後は立花瀧の視点に移動したのでしょうか? それは出会えるか出会えないかというはらはらを、観客に味合わせるための演出上の都合といえばそれまでですが、もう一つ、この作品の続き、立花瀧が宮水三葉と出会い、「君の名前は」と問いかけてから新しい物語が始まるまでを思わせぶりに書きたかったというのもあるのでしょう。

 立花瀧は本作では、宮水三葉と糸守町の人々に危機を知らせる伝達者の役割を果たしています。立花瀧はその役割を果たしますが、その記憶は失われます。

 実際には、彼が記憶失い、2021年に時間が経過したその瞬間から、彼の物語が始まったのです。それまでは『君の名は。』は三葉の物語に引きずられていましたが、問題が解決して初めて瀧の物語が始まったのです。

 重要なのは、観客が最後に願いを実現した三葉ではなく、就職活動中で、まだ願いをなにも実現できていない瀧の視点で終わるところです。ここで制作者は、「次はあなたが願いを叶える番だ」と応援しているように見えます。

 しかし、実際にはリピーターがやってきて、何度も2人のことを見に来ます。これはどう解釈すればいいのでしょうか? それは、観客が自分の番を迎えるために努力するよりも、願望がかなった三葉の視点で、そこから抜け出せなくなっていることを示唆しています。

 この作品には良くも悪くも中毒性があって、人を惹きつける魔力があります。しかし、映画をいくらみても、運命の相手を見つけることはできません。彼女たちはスクリーンの外に向かうことがないのです。

 これは『エヴァンゲリオン』の庵野監督や、宮崎駿監督がまったジレンマを思い出させます。彼らは観客を勇気づけて外に出てほしいのですが、スクリーンで願望を満たしてしまうと、観客は外に出てくれないのです。彼らがアニメが好きであればあるほど、観客もアニメを好きになります。そこから外に出てくれればいいのですが、新海誠監督は中毒者を増やしているように見えます。

 アニメ映画業界にとってこれはとてつもない朗報ですが、日本の未来を考えるという点では、楽観できる事態ではありません。

 しかし、わたしたちは願いがかなった三葉のことを一度忘れて、現実の世界に三葉や瀧を探しに行くべきなのではないでしょうか? ただし、破滅願望に付け込まれて戦争を願う怪しげな指導者や、宗教から遠ざかって、健全な形で見つけなければならないでしょう。

 言うは易く行うは難しとはこのことです。実際には、多くの人は抗えずに、この作品の魔力に囚われてしまいます。この困難さを打破するために、結局自分自身が変わらなければならないのだと思います。

 以上で、議論は終わりとします。


 最後に、自分の映画の感想を書いて終わりにしようと思います。

おまけ:『君の名は。』感想。

 この作品の評価は、娯楽映画を見に来る観客の立場からエンターテインメント映画として評価するならば、感性の合う人は120点をつけてもおかしくはない出来です。絵や音楽、演出などはかなり高レベルで、ストーリーも監督が言うように、飽きさせるところがないので、そこは非常に高く評価しています。

 他方で、作品を鑑賞する立場として見ると、前半から後半の間にある彗星落下の急展開は驚きをもって見ることができたものの、それ以外が弱く泣くとか、魂に響くとか、そういうレベルには達していないと思います。地味に、結末の部分で市長である父親を説得するシーンなど、あってしかるべきシーンがないなど、消化不良を起こしてしまうなど、一つの作品としては未完成の部分があると感じます。エンタメとしては、消化不良がリピーターを作る要因として劇場の興行収入に貢献しているとわたしは見ていますが、鑑賞作品としては作品としては減点せざるを得ません。結論として、75点あたりが妥当でしょう。60点が及第点、70点が合格点とした場合の評価です。合格点は越えているが、それ以上の何かではないということになります。同じ恋愛ものなら、深夜アニメの『四月は君の嘘』の方がはるかに泣かせてくれて面白いです。

 ただし、本作を見て、実際に運命の相手がいるかもしれないなどと思い始めることは危険です。それは「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」と本当に思うことは同じです。

 第3回のときに引用した記事をもう一度引用します。

 そんなものは虚構のなかにとどめておかなければならない。「失われた20余年」に繰り返されてきたこうした願望の発露は、その実現可能性ではなく、その徹底的な不可能性を示していると考えるべきだ。

 劇中に描かれる美しき挙国一致の「ニッポン」は、極彩色のキノコである。鑑賞する分には美しいかもしれないが、それを実際に口にすればひとは死ぬ。ありもしない「底力」とやらを信じて、身の丈に合わない行動を起こし、かえって損害を被るのはもうやめたいものである。

……引用終わり

 例えば、運命の相手が現れたとしましょう。その人物は非常に魅力的で、マスコミ受けして、注目されますが、いつのまにか戦争について語り始めて、「戦争に反対するものは愛国者ではない」などと言い始めるかもしれません。

 ゲッペルスは「愛国を語れば戦争に簡単に誘導できる」と言っています。

 第一次安倍政権で防衛大臣に任命され、安倍と国防に関して同じ意見を持つどこかの女性を運命の相手だと受け入れる、そういうことがどうかないようにとわたしは切実に願っています。

 政治の話を抜きにしても、運命の相手というのは身近にはいないし、会おうとしてもどうせうまくあえず、すれ違うことになるに違いないのです。あるいは、運命の相手だと思い込んでストーカー的犯罪に手を染める可能性だってなくはないのです。

 そういうわけで、わたしは運命の相手、などという甘美で危険な香りを好んで精力を浪費する暇があったら、いま世界で起こっている現実を見て、そのうえで自分の頭を使って考えてほしいと思います。

 明日は新潟県知事選挙の結果次第で書くかもしれないし、別の予定記事をあげるかもしれません。

にんじんスコール注意報

空からにんじんが降ってきてなにかが変わったらいいなと願っているブログ。 ……というのは冗談。 第三次世界大戦に関することや世界統一政府に向かう陰謀シナリオなどを予想したり、時事ネタなどを書いています。

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